昭和44年7月25日  朝の御理解        【入力者:五徳】



御理解第97節
『神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならぬぞ。物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かぬ。』とこう言う。



 神に一心は届かん。神に一心、ね、私どもの一心が神に通じなければ、えーこれ、御祈念をさせて頂く、あー時の、姿勢を見せておられると思いますですね。
 御祈念をしながら、他のことでも考えながら、えーそんな事では行けない。神に拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、それを例え、槍先でつかれるような事が起こってまいり・・・
 御祈念中に、サイレンがなったりいたしますね、よう。ハッと思うてから、どっか(  ?  )なかじゃろうかと思うて、御祈念を途中で止めて、外へ出てみると、これはもう、御祈念の姿がなっとらん証拠ですよね。
 例え、えー自分の上に火がついておっても、動かんといったようなもの、そういうものが、信心にはない。
 えー、太刀洗の飛行場が爆撃を受け、時にはちょうど、甘木の初代の安武先生は、神様へ御祈念中だったそうですね。もうみんな、逃げ散らかしてから、防空壕に入ったわけですね。もう甘木と太刀洗と言やー側ですから、ま大変なことだったと思うんです。ね、ちょうどもう安武先生が、やっぱり当たり前に、御祈念をし続けられたということを伺っております。ね。
 もう直ぐ側が、爆撃機でドンドンやられておる。実は、甘木の町の娘、爆撃機、えーさげげな分からない、そういう、もう、( ? )一重の、おー大騒ぎをしておる時に、御祈念中であられた安武先生は、御祈念に少っしも揺るぎを見せてござらない。ね。
 ま、これひとつ題ですけれども、私が甘木におる限り、甘木には敵の弾は一つも落とさせん、と言わっしゃっとったといったような意味の事を聞いたことがあるんですけれども、正しくそういうような強い祈り、信念を持っておられたんだろうと思いますですね。
 拍手して、再び御神前に向こうたら、そのくらい強い、私は、信心というか、祈りができるような、あー、信心ならねばならん。ね。もちろん、人声を聞くようでは、一心不乱の御祈念をしておると言えん。
 だから、あなたこのくらいの祈りでは、神様は聞いちゃござらんと、例えば、あー、物声を聞いたり、後ろを振り向くようなこ、自分であったりすんなら、そういうふうに思うて、一段と、いわゆる御祈念修行せなきゃいけんと。ねぇ、一生懸命御祈念をさしてもらう、修行さしてもらわなければ。
 神を拝む者は、そして、信心に向こうてからはと、そこで、ここでまた思わしてもらうことは、えー、金光様のご信心が、ご神前に向かって御祈念をしておる時と同じに、ね、私共の日常生活の中にも、そのような強い信念がなからなければならない。
 いつか御理解に、四方拝ということを頂いた事がある。四方拝と言うのは、もちろん、元旦の事を四方拝と申しますが、それは、あの御理解で頂きました四方、四方というのは、自分の周囲、自分の周囲の全て一切を拝むということ。ね。
 えー私は椛目時代に、もう、あ、老人さんでしたけれども、毎朝拝みなさるおじいさんは知ってましたが、ほんとに四方拝をしござったですね。拍手打って、ぐるーっと一ぺん通りなさってです、外へ出てから。そして、八百万の神様、八百万の神様、こうやって拍手を打ってから、はーうーぐるるっと、一遍通り、えー回られる。えー、まそれもやっぱ、自分の修行が産みござるとじゃろうばってん、これは、私は、そういう意味じゃないと思うんですね。
 四方拝というのは、自分の(?しゅうぜん)に起きて来る、全ての、言わば事柄をです、合掌してみたり、合掌して受けたり、ね、していく事だとこう思うのです。自分の都合の良い方だけは拝むけれども、自分の都合の悪い方拝まないといったようなことでは、金光様の信心には、もう劣るんだと言うわけですね。
 そこでですね、例えば、例え槍先で突かれても、もう例えばどういう人声が、話し声がしておっても、雑音の中であっても、ね、それに耳を傾けない。迷わない。一心の信心がでけておらなければならんなと思います。
 えー、先日から、熱心に親子でお参りをされる方があったんですけれども、最近お参りがないんですね。どうした事だろかと言うて話しておったら、あーそのー、翌日、あるご信者さんが、あーそこへ行かれ、どうしたふうですかと言うて行かれた。ところがそのまま、感ずるところがあってと言うわけでしょうね。まぁ人からいろいろと聞かれたわけでしょう。
 私だんは、そげんお参りはせんばってん、おかげは受けておるといったような、あー信心。それでその、いくらお参りせんでおかげ落としたっちゃ、責任な私が取るちゅわれた。だけん、そげな大きな事は言いなさんなと言うて帰ってきたと言うんですよ。ね。
 ほーら信心ばい、お参りを止めたからあげな事になったと、例え言われるようなことがあっても、それを神様のせいやら、親先生のせいやらにはせんて。責任は自分で取ると、こう言われる。ね。
 そうね、そんなら私はもう、あの人の事願うと止めようって言ったようなですね、ことでもないですもんね、お取次ぎって、あた、まこれは私の立場で言うならば。あればあるほど、やっぱり、祈らなければおられんのですけれども、と言うて私は信心を止めたわけじゃないと、こう言う。家にも立派にお祭りがしてあるんです。ね、毎朝、お水を頂いてから、神様を、皆で御祈念をして拝みはしよるとこう言われる。
 やっぱりそういう人もありますしね、あ例えばあの、私はキリスト教の事はよく知りませんけれども、キリスト教にも、たくさんな派があるらしいですね。仏教にも、たくさんな仏教がありますように、キリスト教にもたくさんな派があるんです。その派の中に、無教会主義というのがあるそうですね。教会は、ない。いわゆる、し、信者だけで、例えば自分だけで、拝むというわけでしょう。信心するというわけでしょう。
 自分たちだけで、まぁ、教えなら教えを、ま勉強しあう。いわゆるその、先生とか牧師といったような者はいらないわけなん、教会というのも必要じゃないわけなんです。いわゆる無教会主義です。
 これはですね、一通りそれを聞いただけで、もう、誰でもそれへ飛びつきたいようなものを持っておるということは、以下にお互いの心の中にですね、不精心が多いいかということが分かりますよ。ね。
 いつだったか、もう何年か前でしたが、あの、そうですね、堤さんのところに、えーある、うー、宗派の人が、お導きに来た。あんただん、もう毎朝毎朝参って、毎日毎日あんたお供えせんならんなが、あたしどんが信心なら、月に一回か二回か参りゃよかて。お供えもそげんせんでよかて。
 もうそげな信心はなかばのっちゅうてから、その、勧めてこられるときに、堤さんが言うておられることがですね、「お参りができるんならね、朝昼晩でも参りたい」と。お供えならば、ほんとに、ねぇ、だんだん、その(?左のが)こうなっていく事を、私だん願いとしておるちて言うたんじゃ。それだけのことができると。その信心に没頭できると。ね。それでいて、ならお供えでもどんどんできるほどし、だんだんおかげ頂いていくなら、どっちがおかげじゃかのっち、言うたらもう、多くを語らずに帰られたということでございましたがねぇ。
 けれどもこれが、うんなら、ほんとに、お、ご利益ならご利益という事だけを考えておるならですね、はぁ、参らんでんよかなら、ようして、おかげ頂くなら、それがよかのうち。お供えもせんでよかなら、それがよかじゃんの、ちょ、というたふうに、やはり迷い、その、ただご利益ということだけであったら、もしそれが事実であるとするならば、迷う、わんで、ね、えー、いや、迷う、ほどしのほうがですね、やっぱ多いことではなかろうかとこう思いますね。
 いわゆる、信心の喜びといったようなものを別にしたら、ね、信心がただご利益を頂くっていうことのためだったら、お参りをするということに楽しみが感じておる。ね、もちろんそこには、目には見えないけれども、自分の心ん中に育っていくもの、ね、もちろん信心、はぁこれが御神徳というのであろうかというように、自分の心の中に、言わばあの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけるといったようなものが、できていきよることを感じるです。ね、信心さしてもらいよったら。
 なるほど毎朝、自分でお水かかって、毎朝自分方の神様を拝んどると、ねぇ。そしておかげを落としたっちゃ、責任は自分で取るというようなです、ような生き方もやはり、やはり無教会主義といったような生き方も、おーあるのはある。
 でそん時に私はですね、今朝思い出したんですよ、そん時頂いた事を。あのー、こういうふうに頂くんですよね。弓偏にムと書いて弘と読むですよね。すと、広いと、広大の広ですね。広いというのは、こう書いて、中にやっぱムですよね。
 ね、お広前の、お広です、広ですね。だから、そのー、うん、このお広前という、(?する)という事は、お広前の事だろうと、こう思うのです。ね。そこで、自分をむなしゅうしていく稽古を一生懸命しておるところなんです。ね。
 そうすっと、いわゆる未教会主議というのはですね、やはりこりゃムですよね、こっちがムんなったら。こちらはこう弓偏になっておる。いかにも、お参りする時間はたくさんある。お供えはせんでも良いごとある。ね、もちろんせんでも良い。いわゆる(?憎悪)はかからん。自分の身は自由だと。束縛されない。お参りする時間ていうものが、ころっとある、ようであるけれども、それではますます窮屈になるという意味だと、私は思うたです。
 だから、これは一遍字引で引いてみ、み、み、もらおう。どういうような事かと、今日、思い出しとったけ、忘れとったけ、今日、御祈念中にこのことを思い出さして頂いた。
 ね、(?じゅうぎり)とか、どういうふうにこの意味がなっておるかは知りませんけれども、まぁ私は、その時にそういうふうに感じた。いかにもですね、自由自在のようにあって、実を言うたら、非常に窮屈になるです。
 ま例えて、ま例を言うならですよ、私どもこうやって、も畳半畳から外へ出ないんですからね。もうそれが、建前ですから。だから、私、えらい窮屈のようにあるかと思うと、ひょっとすると、皆が自由自在に動き回っとる人よりも自由なんです。私の心というものは。ね。
 教祖様は、そこんところを、世界は和賀心にありとすら教えてある。も世界中どころか、それこそ月の世界にでも、ねぇ、自分の心というものは、遊んでおる。よく事ができておる。
 ね、その、(   ?   )半畳の中に座っておりながらです、さぁ、その、お野菜買い行くこともいらなければ、着物、おー反物買い行くこつもいらない。ね。もうそれ以上の自由を、ここで頂いておるのですからね。自由自在である。自分の心は、もう、ねぇ、言うなら、心は、もう天かけり、くにかけりができておる。それは、窮屈な思いをここでさして頂いておれば頂いておるほど、ここでは有り難うなって来る。
 有り難うなって来ると、そこから、私の心はもう自由自在。どこにでも使え、る事ができるようになっておる。ほんとになるんですね。
 さそこで、私は今日思うんですけれども、えーまぁ97節の、おー御祈念の姿勢、御祈念の姿というものは、こうあらなければならないと、いうことだけではなくて、四方拝という意味。
 いつも私どもは、自分の周囲のすべてを拝んでおるという意味合いにおいてです、ね、もう一端お道の信心さして頂いたら、すべての事を、成り行きを大事にさしてもらい、成り行きをいよいよ、拝んで、合掌して、受けていこうと、いうような、生き方の稽古をさして頂いておるところにです、例えばそういうなら雑音が入ってきたと致しましょうか。
 そげんあんた拝まんでも、そげんお供えせんでもと、おかげ頂きゃ(?えん)。そんならそっちの方がええです、ただ、朝、水どんかかってから、家の神様拝むだけで、おかげ頂きよるなら、その方がよかの、というふうにです、そういうふうに迷わんで済む信心。いわゆる、我流れでいっていく信心。ね。
 ここには、昨日のご理解にありますね、ここには信心の稽古に来るところと。稽古に通わんでもです、家でやって行ける、いわゆる無教会主義的な信心で、えーどういうおかげが受けられるか。ある程度のおかげは受けられましょうけれども、いわゆる無限大というように、限りないおかげに繋がっていくことは、まぁ、絶対ありえないと思うですね。
 そこで私は、今日思うんですけれどもね、信心、えー、この、おー、しっかり信心の帯をせよとこう仰るですね。帯をしてない、帯がゆるくし、だから、こう胸元が乱れたり、裾が乱れたり、または、ばんばらばんになってしまうと。帯が解けてしますから。
 ね、しっかり信心の帯をせよと仰る。そのー、帯という事はどういう事であろうか。ね、間違わない、きちっとした帯をさせてもらいたい。
 私はその、んー、この97節を頂いて、んー、槍先で突かれても、後ろへ振り向く事はできんとか、物音や物声を聞くようでは、神に一心は届かんとか、ね、例えば、人がちょいっとどうか言うたら、もうすぐそれにふらっとこう迷うてしまうというようなですね、えー乱れてしまうような、あーのは、どういうことだろうかと思うたら、私はご心眼に頂くのがね、ま今の、白っぽい生地の着物にですね、ちょうど原さんが着ておられるような、ああいう、んー白っぽい着物にですね、黒のすすの帯をこうしてある。こう、それも、あんまり着こなしの悪い、ま変な感じでね、こうしてあるところを頂くんですよ。
 どうも、あの白生地の、白生地の感じのところへ、黒い帯を私が、それ、その、見せて頂くご心眼では、あのー、ひとっつも映ってない感じでしたですね。この着物とこの帯が。だからあの、信心の帯ということをね、苦労の帯という事。信心の帯ということを、ただ修行さえしとれば良いといったようなのが一生懸命修行しよる事が、信心の帯ではないという事。
 私は今日、そこんところを始めて頂く気がするんです。私は、しっかり信心の帯をせよという事は、しっかり修行するというふうに思う、頂いておったんです。ところがそうじゃない事が分かります。
 ね、例えばその着物、でしょ。例えば、あー、赤色の着物を着たら、赤に映るもの。黒色い、黒っぽい着物なら黒っぽい着物に映る帯というものがです、臨機応変に(?しみ)なれておらなければならないということです。私はそういうふうに、感じました。
 ね、しっかり信心の帯をせよ、と仰ることは、一生懸命だとか、苦労さえしときゃよかと、修行さえしよりゃよかという意味じゃぁないです。いわゆる、すすの帯だけじゃいかんということ、黒ずすの帯だけじゃいかんということになる。
 信心の帯という事は、あー、いかに、えー、ただ一生懸命修行しておるという、なぜかって言うと、今日、私が例を取りました、その、おー毎日、水かかって拝みよるというその人なんかは、もうほんとに、ね、とにかく非常に修行精神が旺盛で、非常に修行の雑多んですもんね。修行しなさることを、非常にその、まぁ、嬉しゅうしよんなさったんですよ。
 言わば、白い着物に、今日私が頂いた黒ずすの帯を、(?ひとなさった)ようなもんじゃとなかったんだろうかと、いっちょん映ってなかったわけなんです。ね、だから、その修行がきつうなったわけですね。今日も朝は眠られん。毎日参らにゃならん。最近のごたるは、昼もまた、修行に参らにゃならん。参るたんびんに、やはり何がしかのお初穂をせんならん。とてもそげなこっじゃ、もうもてん。
 そういうところへもってきて、私だん参らんでん、おかげを頂きよる。こうやって、此の方の行は家業の行っちゅうちゃるけん、家業の中に行を見出していきゃ、それでよかがの、って言われたら、それでぴろっと、はぁそれもそうて、迷うてしまう。ねぇ。
 そこから、例えば、うんなら、どういう開きになってくるかというと、この、弓偏にムであったり、お広前の広と、こういうふうに違うてくるんだということをですね、私どもは、えー、知らなきゃならんですが、そこでその、信心の帯というのは、お参りとか、修行とかだけじゃないということ。ね。
 いかに私は、その教えというものがです、ね、教えというものを頂き込んどかなければならないか、また、教えに、いー、叶うた、言うなら教えを守っての生活であらなきゃならないか。信心の帯というのは、それだと思うです。
 だから、修行ということでも、そういう、例えば、あー教えを、おー、教えにするための、おー例えば様々な修行ということであれば、いいでしょうね。おかげを頂くために修行しよるといったようじゃなくて、教えをほんとに身につけていく事のための、例えば表行ですね、修行でもさして頂いておるという、そういう、信心の帯というのは、そういうもんでならなきゃならない。
 それを私どもは、まぁ、表行的なもの、ねぇ、そういうものを、おー、例えば信心の帯を、しっかり自分はしておるといったようなふうに思い込んでおるから、それが変なものになってくる、おかしなものになってくる、ちょっと突かれたら、それでは、その苦労の帯は取ったがいいですから、その苦労の帯を取ろうとする。そこに、いわゆる、ばんばらばんの、ばんばらばんですね、帯を、和服を着ては、(  ?  )取ったら、黒のすすの帯を取ったら、もうばんばらばんです。
 いわゆる、乱れてくる。そこに、窮屈ではないはずの、自由なはずの、言わば、あー信心、えー生活が、かえって窮屈になってくるということになるのじゃないでしょうか。ね。
 ますます、うー、栄えていかなければならない、ますます、おー限りなく広がっていかなければならない、ね。そういうおかげを頂くためには、どうでも、一つ、私どもが、どんな事を聞いても、見てもですね、迷わんで済む、振り向かんですむ、ね、信心。そういうことも、97節では教えておられるように思うのです。
 ね、もちろん、ご神前でん、御祈念をしてもらう姿勢、という事は、もうここにはっきり出ておりますけれども、その裏にはです、言わば、私ども全てを拝まして頂くというのがお道の信心であってみればです、そうして拝んでおるはずの私にです、そげん拝んだっちゃあんた、どうするかと、ね。
 私ども拝みよらんでも、こうしておかげを受けておるというようなことを聞いたら、はぁ、ほんにそれもそうと、迷わんで済むためにです、ね、一心の信心というても、その一心の内容というのがです、教えを頂く事に一心、ね、それをほんとなものにするための表行、修行。そこんにちはです、ね、教えを本気で行じさして頂く者の喜びていうか、楽しみていったようなもの、今も申しますように、自分の心の中に、ね、これがいよいよ無限大に繋がっていく御神徳が、今こそ備わっていきよる、身についていきよるときだなぁと感じれれるようなものをです、私が頂いて、信心を進めていかなければならん。
 その今日私が、えー今日のこの97節から、あー、取り上げ、私自身、はぁそんなもんかな、と今日感じ、分からせて頂いたことは、今申しますように、乱れんで済む、迷わんで済むと、しっかり信心の帯をせよと仰るが、信心の帯とは、ただ修行さえしよればよいというのは、それこそ、黒ずすの帯を締めておるようなものであって、おかしくてですね、白というのは、やっぱり信心という意味でしょうがね、白い、白い感じの着物は、映らない、おかしい。言わば、信心しよってというおかしい。けれども、その信心の教えが身に付いてきたら、これは誰でも、はぁ信心ちゃ有り難いもんじゃと合点せんはずがないです。
 教えが身に付いてこんから、新たな信心はしよるけれども、(  ?  )参るこっだけ参りよるけれども、毎朝水だけはかぶりよるけれども、という事になってくるのです。ね、その教えがいよいよ身について来る信心。ね、私信心の帯というのは、言わば、いうならば、教えの、おー帯と言うてもよかぐらいだと、私は思うです。ねぇ。
 それをいよいよきちっと、締め上げさして頂くための、もちろん、表行で、修行でなからなきゃならない。ね。ここにです、私は無教会主義的な生き方の人。ね。時々お礼参拝すりゃよかといったような程度の行き方の人。それから、毎日日参り、または夜参り間でできておられる人たちの生き方。
 ね、言えば無教会主義的な生き方、ね。もう、お広前、お広前、とお広前に、いー参拝さしてもらうことを楽しみの信心。ね、そういう信心が、このようなふうに変わってくると、ね、この字で示されたようなふうに変わってくるという、じじ、この実際をですね、せもうもって現していくために、いよいよ、おー、言うなら一心不乱な信心、ね。いわゆる迷わんで済む。どういうことを聞いても、驚かんですむ信心。
 ね、いわゆる、その一つの信念をつき、貫かせて頂くためにはです、しっかり教えが身に付いていなければ、ね、それこそ頭の上で爆音がして来る。(?さあばんじき)だというようなことになってくると、防空壕に慌て回って入らなきゃならない事になってくる。
 そんの方が、いかにも楽なごたるけれども、実際はその向こうにまでね、それこそ甘木全市に、いー、一発の敵の弾も入れさせられなかったというほどしの、強い、いわゆる無限大の信心ですかねぇ、無限大のおかげの受けられる信心というものは、そういうような信心からしか、私は生まれてこないというふうに、私自身も信念致しております。
 信心の帯をせよと仰ることは、ただ、修行、苦労しておるということだけではなくて、ね、教えを本気で行じていくという信心の帯でなからなければ、いざという時に、立ち上がらなきゃならない。いざという時に、迷うてしまわなければならないといったようなことでは、いけないといったような事を、教話申しましたですね。
 どうぞ